戦争体験のトラウマ(心的外傷)の悲惨さはベトナム戦争から帰還した米兵の事例で注目されたが、日中戦争や太平洋戦争に従軍した日本兵もまた、同様に苦しめられていた。精神障害の発症者は戦時中、千葉県の国府台陸軍病院を中心に収容され、戦後も偏見からほとんど顧みられることはなかった。戦後75年がたち、トラウマを抱えた元軍人らの家族が体験を語り合う活動も出ており、忘れられた戦争被害に光が当たりつつある。 【写真】自宅敷地内の交流館で「駄目人間とレッテルを貼り、俺は父の姿を見誤ったのではないか」と話す黒井秋夫さん ≪隣デ私ヲ殺ソウト相談シテイル声ガ聞コエマス。衛生兵ニ殺サレルヨリムシロ自決シマス≫ 九十九里浜に近い同県東金市の浅井病院に、精神障害を発症した日本兵約8千人分の「病床日誌」が残る。戦闘の恐怖や部下を死なせた自責の念から追い詰められ、心が壊れていく様子が記されている。
初代院長の故浅井利勇氏は戦時中、国府台陸軍病院の精神科医だった。敗戦で処分を命じられた医療記録は職員がドラム缶に詰めて土中に埋め、焼失を免れた。浅井病院に残る記録は浅井氏が後に掘り返し、研究のために複写したものだ。 それによると、福岡県出身の陸軍中尉は中国で討伐戦に参加後、幻聴や幻覚が現れた。≪今夜ハ必ズ殺シニ来ル≫。不眠になり、仲間に襲われるという強迫観念におびえた。熊本県出身で農家から召集された兵士は戦闘で部下を失い、うつ状態になった。入院後の医師とのやりとりでは部下は死んでいないと話し≪郷里ニ帰リタイ≫と繰り返した。
◆ ◆ 病床日誌の研究を続ける川口短期大(埼玉県)の細渕富夫教授らによると、戦時中、国府台陸軍病院に入院した日本兵は1万453人。約6500人は兵役免除となり、故郷に戻った者もいた。一方で入院したまま最期を迎えた人もいる。 「名誉の戦死」「戦病死は恥」とされた時代に、精神を病んで国に奉公できないことに苦悩する日本兵の姿も病床日誌からは読み取れる。戦後も精神障害への社会の理解は乏しく、傷痍(しょうい)軍人として国の保護を受けることをためらったケースも多かったとみられる。戦傷病者特別援護法に基づき、公費で治療を受けた人は最も多い1978年度でも1107人にとどまった。 戦争末期には輸送船や燃料も十分になく、制海権も失い、外地からの移送も困難になった。細渕教授は「精神を病んでも、治療につながらなかった人は相当いたはずだ」と話す。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース